止まれ、一瞬----いつか来た道
ウクライナに侵攻するロシア軍、いつだって帝国主義の侵略は獰猛で醜いものだ。この戦争がプーチン個人の特異な精神状態や合理的な判断欠如によって
引き起こされたものでなく、あるいはロシア人という民族や社会に起因するものでもない。
過去のこの国を思い起こしてほしい。聖戦とし内外の諸国民に多大なる辛苦をもたらした帝国主義戦争を、この国の経済覇権を達成するべき手段としてのブロック化政策を
忘れてはならない。いつか来た道は社会主義、民主主義、自由主義、国家主義そして独裁主義といった政治体制に起因するのでなく、すこぶる経済的要因によって
引き起こされると私には思われる。
近視眼的に政治家の資質、歴史や民族性そして政治体制に解を求めるのでなくじっくりと、いつか来た道を考えたい。大風呂敷を広げて言うならば金融資本の運動法則を
計画経済であろうが自由主義経済だろうが一般化した下部構造の上に構築したい。
(2022/3/5)
ホワイトアウト
政治でも社会問題でも何もかもがまるでホワイトアウトのような様相だ。実のところ論理的に納得のいく話なんて
あまり喜ばれない。というよりあまりにも利害が衝突しているので旗色を鮮明にしたくないというのが私の態度だ。
こういった態度や姿勢が良い事かは議論のあるところだ。しかしながら元五輪組織委員長の森氏の発言に対し、多くのわきまえない発言
が様々なツールから聞こえてくるのは嬉しい。
時事問題や経済事象でさえこの国の政治風土を考えて私はわきまえてきた。このような傾向は特にエコノミストに顕著にうかがえる。
まともなことを議論するとたたかれる、初めに経済学者やエコノミストありき。昔から叩かれることに慣れている人たちだ、「見ざる、聞かざる、言わざる」
は得意科目と言える。こういった職業人の立場を考えると、わきまえない発言のおおらかさがなんとも頼もしく思われる。
(2021.2.17)
謎の現象 スタグフレーション
最近「物の価格が上がっている-インフレーション」、「コロナの影響か、景気後退の様相」
忍び寄る世相の変化を感じる。トヨタの工場が止まると言うニュースには驚かされた。半導体不足というサプライチェーンの切断は車の生産現場に現れたがこれは
様々な商品に現れているように思われる。40数年前この現象に経済学は驚愕し、処方箋を求めたが結局はほとんどとん挫した。時代の変わり目ななのだろうか、
それともコロナの感染拡大による影響なのか非常に興味のあることだ。拙い知識によるが、大内力あたりがこの辺の現象を的確にとらえていたと、
懐かしく思い起こされる。
スタグフレーションの現況を分析することはそれはそれで大切な事なのだその要因が資本主義に内在的なものか、あるいは資本主義にとって一時的外在的要因によるものかは
また違った意味において重要である。
後述、、、。
(2021/9/18)
新型コロナの感染拡大はもはや人災
「魚のように死んでいく」 インドで語られた言葉だ。
コロナに感染し酸素求め、叶えられず多くの人が死んでいった。こんな惨状がいま日本各地で起きようとしている。野戦病院の構築というが、日々の感染者数のおおいさに
ため息を思わずついてしまう。この国とて、インドと変わらないと思う。軽症や中等症の患者に酸素吸入は心肺に相当の安寧をもたらすというのに、自宅療養であるなら
多くの感染者はその恩恵とは無縁であろう。
暗幕に閉ざされた狭小な空間に、わずかばかりの光明にすがり、生への渇望が幾たびともなくしぼんでいく様を私たちは日々ニュースで知る。一つの生命にはおそらくは
輝いていたであろう過去があり、虹色の未来への希望に満ち溢れていたに相違ない。ニュースには具体的な事実があり一つとして同じものはないのだけれど、おしなべて
抽象的には悲しい感傷の淵が淀んでいる。
何故私たちはこんな悲惨な光景を見続けなければならないか、ちょっと考えてみたい。
止まれ、一瞬「危機管理」
すでに医療崩壊
就業機会の得られない労働者を産業予備軍と言う。同じようにコロナに感染し入院あるいはホテルに入所を希望するも叶えられない感染者が数多く居られると聞く。
中等症、軽症と言われる病状は私たちの一般の語感に直訳するとそれは危篤、重症になる。死ぬほど辛い症状である中等症、
軽症と言われる感染者が自宅療養とされ
医療の埒外とされ医療行為を施されない。まさに病床予備軍と定義してもよいような、情けない惨状である。
ケインズ流に言うならば非自発的自宅療養者なる語で中等症、軽症と言われる感染者を議論の俎上に上げるべきであろう。事実に即して待機感染者や自宅療養者を
俯瞰してみると患者側の意思により「自発」や「非自発」がなされるのでなく、保健所による裁量こそが入院の決定要因のように見える。
多くの国民の生命財産が危機に瀕している国難は戦時ばかりでなく、昨今の感染症拡大情況にも現れる。政策判断としてのロックダウンは国難に遭遇した時の
政策当局のビヘイビアーとしては至極自然な流れである。遅れて感染症拡大局面に突入しているアジア諸国とてデルタに対抗するには強力な政策は必然と
考えられる。
声高に危機管理を叫んでいた論客や政府の中枢が昨今の新型コロナの感染拡大に対して及び腰なのはなんとも理解しにくい。感染症は検査と隔離が基本と聞く。
この国の為政者は一体何をし、何をなさなかったのか。竹槍でコロナに立ち向かいながら、私はじっくり考えてみたい。
3・11 あの寒い冬の日々
2月13日夜福島県沖で地震が発生、ちょっと大きな揺れだったせいか3・11あの寒い冬の日々を思い出した。停電のため石油ファンヒーターは使用できず、
ろうそくの明かりで食事をとり、寒い夜を過ごしたことが思い起こされた。冬は寒いに決まっている、そうであるなら「あの寒い冬の日々」は大げさで少々
不自然な表現なのだが、あの年はなぜかそんな日々が長く続いた。仄かな明かり越しに亡父の笑顔が蘇る。
地震だけにとどまらず大きな傷跡を残した3・11だった。復興の名を冠した東京オリンピックが今般の新型コロナの感染拡大で岐路に立たされている事に加え、
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の問題発言とこの国の社会変動も収まらない。
たわいのない、暖かい日常はいつになったら始まるのだろうか。
菩薩、汝花の如くに
そろそろラベンダーの花が咲き乱れれ甘い香りが立ち込める季節になったがコロナ騒ぎで観ることも叶わない。富良野までも足を延ばさなくても玉原高原で
ラベンダーの花を観賞できると聞く。もう少しで梅雨が明けるだろう、会いたい観たいと叫ぶ私の精神。
とにかく自由に浸りたくて北海道の山に飽きるほど居座った時期がある。花の大雪と言われるが北海道のど真ん中にテントを張りそこから四方の山に赴いた。
山を想うとラベンダーの紫花の香が同時に脳内を駆け巡る。ポピーの赤い花と入り混じり、視覚と嗅覚が並列に知覚される。そういった意味で
ラベンダーと自由は同時進行形で記憶素子を形成する。総て古きものは輝きを失い、新しい息吹の胎動は私にも聞こえていた。
始まりの門出に咲き誇る自由の賛歌、ラベンダーの花はそんな風に私の精神に刻まれている。
菩薩、汝花の如くに、自由がおぼろげに形而上の産物であり続けたころ。止まれ、一瞬。
六地蔵
お恥ずかしことですが、お地蔵さんは何故六人なのかと思い調べてみました。仏教の六道輪廻によると、生き物は六つの世界に生まれ変わりを繰り返すと
され、お地蔵様はそれぞれの世界に対応し生き物を救済されると言われている。地獄道の檀陀 (だんだ) 、餓鬼道の宝珠 (ほうじゅ) 、畜生道の宝印、
修羅道の持地 (じじ) 、人間道の除蓋障 (じょがいしょう) 、天道の日光の各地蔵菩薩とされる。どの世界にも弱いものは存在し、苦悩し泣き叫び、あるいは
そういったことすら自失し、虚空を漂い移ろう視線の先にきっと救いの手はある。消え入りそうな、わずかばかりの光明に私たちの心は満たされる。
あまりに気弱な精神の、より繊細な物理的シナプスの折れるほどのはかなさを六地蔵は知っている。
止まれ、一瞬。小さく呼吸をし、蒼穹に視線を向ける。そうなのだ、あの時もあくまでも物悲しい虚空を見上げていた。
駅のプラットフォームに仰ぎ見る夜空の視線の先に一体何が投影されたというのか。除蓋障よ、教えてくれ。
風に耳をすませば
締め切った病院の窓ガラスから見える風景はそれはそれで趣があるのだが、
何かいつもピント外れのファインダーを見ているようで落ち着かないでいた。
温度感、肌感覚と言うべき皮膚を通しての知覚も視覚には必要条件なのだ。
空気の移動の様が冷たい窓ガラスに遮られ、自然が持つ細やかな豊饒とて何とも貧相な平面的な幾何文様だ。
音がサイン、コサインのへんてこりんの集合体なんだと思うと、風にたなびく商店の旗竿から
超音波の例の波型が脳裏に映る。私の歩く靴音はどんちょうな大きな波型、先ほど放り投げたチリ紙はとても小さな波型で、
小刻みに存在感を主張する。
あなたの発した、そのため息は一体どんな波形なのか。
セピア色に色あせた記憶
鮮やかな風景画を見るように時の一コマ一コマが連続ドラマ仕立てで蘇る、そのように私の記憶装置はできているはずなのに
どうした訳かは分からないけれど、年老いてくるとセピア色に色あせた記憶しか蘇って来ない。夕暮れ時の街並みは確かにかすれた色を
まとってはいるのだけれど、決してそれはセピア色なんかではない。
ビルの窓ガラスに映る夕日の、その反射の一本一本の光線がまた虹色に分かれて走っていく。こんな事覚えているのは私一人だけだと言うのか。
