単独行(p1)
到達しえた高さ、困難さの度合いで山行の価値が測れるならば、私のそれは評価に値しないであう。
山岳会に入会し、一定の技術指導を受けそれなりの山や壁を登ることが近道だろう。喜怒哀楽を共にする山登りは甘美な郷愁を誘うであろうが、
私にとってそれは受け入れがたい。
自分ひとりでルート選定を行い、克服するための技術を考え、習得することに意義を見いだすことは徒労だろうか。
近代登山の黎明期に先人の足跡を偲ぶ唯一の方法と思いたい。自分だけで到達できたものに合格点を与えたい。
登山は登ることだけではない。安全に下山できてこそ意味をもつ。
単独行と言えば、加藤文太郎や松濤明を思う。その著書「単独行」、「風雪のビバーク 」を読んで、あのような山行をしてみたいと思う。
運命のいたずらかパートナーを伴い、両名は冬の北鎌で遭難死してしまう。技術と体力及び精神力で劣る私は難易度の低い山行で追体験を試みるつもりだ。
荷物は軽いほど良い、手と足だけで岩山を駆け登るのだから。ハンマー、ピトン、捨て縄、ちょい細めのザイル、ヘルメット、ハーネス、ツェルト、
シュラフカバー、トレーナー、靴下、雨具、15Lザック、ストーブ、燃料、水、食料、菓子類、食器類で15から16Kgだ。
これくらいで、夏山の岩稜は何とか行けそう。非常用でほとんど使用しないであろう道具が半分以上の重さを占める。
川に入るときはわらじも必携だ。革製の登山靴は履かず、安めの運動靴を使用している。このほうが疲れず、軽快だ。
あとは普段着にカラビナぶら下げといったいでたちだ。
登山ガイド本に初級、中級、上級そして熟達者の表示があるが、山はどのルートも危険と考えたほうが賢明だ。岩登りルートも同様にグレード表記がされている。
私は熟達者向け ルートをはみ出たぐらいが好きだ。
単独行は一人で登山することで、集団登山の反対概念とでもしておこう。予定、計画は一応前もって考えておくがあくまで大まかなものだ。
気に入った風景に遭遇すれば何時間でもトカゲをする。逆に時間調整で駆け足ですり抜ける。自分ひとりなので、なんだらかんだら相談する必要もない。
単独行は人間嫌いなんかじゃない、本当は人が恋しいのだ。
朝から一人登山道を歩き、突然他の登山者に遭遇した時にはとても懐かしい友人に会ったような素敵な感情を覚える。決まりきった挨拶をかわし、どこから歩いてきて、
そして何処へ上る のか、決まったように尋ねる。聞かれたほうも、嬉しそうに概略を答える。私同様相手方は、どちらへと聞く。気が向けばとりとめのない話を互いに交わす。
時間の浪費のなんと多 いことか、でもとても贅沢な感覚に包まれる。物体が同じ速度で移動する限り登山道であれ都会のごみごみした交差点であれ、
一般相対性理論は貫徹しているはずなのに、確かに山ではゆったり時間が流れている。たまたま同じ方向へ行く登山者に会えば、もう立派な目的地までのパーティーだ。
私にとって山での楽しみはコーヒータイム。あの重たいコールマンのストーブに鍋をかけ、湯を沸かす。これまた専用のカップにインスタントコーヒーの粉末と
やや多めの砂糖をいれ、沸かした湯を注ぐ。それから、おもむろにあたりを見回す。どこでピースを吸い、珈琲を楽しむかの居場所の選択だ。
この時間は一人が良い。動物が獲物を捕らえ仲間にそれを取られないため貪るように、私もまた孤独を愛する。
ニコチン、タールそしてカフェインの摂収が、眺めの良い場所であれば精神の健康にすこぶる良いと思われる。山とは文明から離れ、不自由な環境で道具を
使用する文化的行為であるというような事を、確か桑原武夫が書いていた。文明から離れ、文化を知る。集団から外れ、出会いを求める。なんか不思議。
単独行と言うと遭難の場面に出くわしているかと思われるが、私の場合それはない。一般縦走路の危険個所は鉄梯子や鎖の綱で補強され、
安全に登高できるよう整備されている。鉄梯子を登るときなど宙に浮きむしろ怖いくらいだ。精神的恐怖の軽減のためそれら人工物に頼らず私は、
直接岩に手足を掛ける。穂高と槍の肩の小屋に泊まった時、偶然遭難者の仲間と話をした経験がある。